高知 桂浜
高知市 桂浜


動乱の幕末、四国山地に囲まれた陸の孤島と呼ばれる辺境の地に生まれ育ち、表舞台で活躍する事は、まず難しい一介の下級武士が、この日本の未来の為、自分の夢の為に暗躍し、時代の幕開けに大きく貢献しました。


幕末史の中でも絶大な人気を誇るあの坂本龍馬です。当時、土佐藩の武士も、上級武士(上士)・下級武士(下士)と明確に別れていました。区別と言うよりは、差別化ですね。その話は戦国時代にまで遡りますが・・・ 龍馬は侍とはいえ下級武士でした。土佐藩には、江戸時代を通して土佐特有の上士と下士との暗黙の対立があったようです。


龍馬の話しをする理由は、歴史上の偉人だというのはもちろん、僕の出身地が高知ということで、多少なりご縁があるからです。かなり遠まわしな僕の自己紹介と高知のPRがあり、土佐の歴史の話しなども多いですが、お時間がある方はお付き合いください。

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陸の孤島、土佐の歴史にまつわる話しと僕のルーツ



僕のルーツってのは余計ですが、お許しを・・・ 以前、幕末に書かれた我が家の家系図を家の倉庫で見つけ、それを元に自分のルーツを色々と調べた結果、430年程前にご先祖が土佐の地に流れ着きました。


ちなみに、日本の古代史には、未だに解明し切れていない多くの謎や、今更、表に出すのはタブーとされるような言い伝えが多々あります。そのせいか、非公開の系図といったものも世の中には存在します。時の権力者にとって不都合な事は、隠ぺいされてきたせいもあるからでしょう。


あくまで、系図や資料を調べた上での話しですが、自分の家にまつわる一番古い言い伝えを信じれば、約2千年前の、とある人物にルーツがあります。古代史に詳しい方なら、お気づきになると思いますが、日本建国の謎、古代史の謎を解くキーマンとなる人物または、人物像にルーツがあるようです。各地の神社にも祭られていたりします。念の為、ヤマトタケルではありません(笑)が、ご縁を一切否定する事はできませんけど・・・


僕のご先祖は戦国時代は、京の都の住人であり、当時、京の都までも勢力圏にしていた阿波(徳島)の三好氏に仕えていた様です。武家などは「苗字」の他に「本姓」といったものがありました。「氏」と言われるものですが、本姓は藤原氏であったり、清和源氏であった様です。京の住人であるその方の孫、二人のうちの弟は、甲斐(山梨)の武田信玄の息子、勝頼の侍大将八人衆の一人として活躍したようです。


そして、兄の方が僕の直系のご先祖です。当時、四国をほぼ平定した、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)との戦いに三好氏は破れ、僕のご先祖も、京~阿波~土佐へと流れ、長宗我部元親の家臣となり土佐の領地を拝領しました。この元親は、もし、織田信長よりも早く生まれていたらもしや・・・と言われている様な人物でした。タラレバですが・・・ 戦国武将ファンの支持が高い人物です。

ご先祖に思いを馳せる



しかし、四国統一寸前だった元親も、信長の死後、豊臣軍により土佐一国の大名へと押し返されてしまいました。そして、豊臣秀吉の命により、各地の大名が九州の島津氏討伐へと向かわされます。島津氏と親交の深かった元親も時代の流れには逆らえずに出兵せざるを得ませんでした・・・。そして、戦国史上「最悪」と言われる激戦、九州の「戸次川の戦い」となります。その時に、秀吉軍の総大将として指揮を取ったのが、四国討伐で手柄を立て、讃岐の領主となってまだ日が浅く、武将としての経験も乏しい仙石秀久でした。


秀吉軍、島津軍が戸次川を挟んで睨みあっている中、総大将、仙石秀久は、自軍の士気を上げようとしたか、功を焦ったか、しびれを切らし、長宗我部元親をはじめとする百戦錬磨の諸大名の反対を押し切って、真冬の極寒の川の中を渡り突撃するという命令を下しました。


想像するまでもなく、真冬の川の中では、敵の思うつぼ。仙石秀久は大失態を犯してしまった・・・ この方も、日頃からもっと瞑想や武芸の道に励み、自分の精神をもっと鍛えていれば、また違った決断を下し、違う形で戦国史に名を残せていたかもしれませんね。総大将に抜擢した秀吉の失態でもあるでしょう。


秀吉軍は、島津軍の巧みな作戦もあり惨敗。その川を渡った第一軍に続き、第二軍に長宗我部元親の嫡男、信親(信の字は織田信長から拝領した)の指揮する軍があり、信親をはじめ、多くの有力な武将達が、寒い川の中で命を落としました。第三軍の父、元親が出陣することなく、秀吉軍は撤退することになりました。総大将の仙石秀久は、諸大名を差し置いて、急ぎ讃岐へと逃げ帰り、秀吉の怒りに触れ、改易(お家取り潰し)され追放されました。


史実ではあるけど、戦争は、敵、味方関係なく人の命を奪うとてもダメな行いですが、仙石さんも秀吉の命令で、嫌々ながら総大将になったのかもしれませんし、自分の事も可愛いかっただろうし、大切な家族も無事に帰ってくることを願っていたでしょう。家族にも武家としての覚悟はあったでしょうが。


仙石さん、せめて、当時の武士の道に生きる者として、リーダーとしての責任をもっと持ち、命を懸けて勇敢に部下を守ることが出来ていれば、この様な形で後世に名を残す事もなかったでしょうね・・・ 高い地位などに憧れるのは良いですが、 いつの時代でも、人の上に立つ人は、私心がどうこうと言ってられません。その覚悟がないのならば、許されるなら、その立場を降り、もっと他の人に譲ってあげられれば良いかもしれません。


長宗我部元親像
高知市長浜 長宗我部元親 初陣の像


長宗我部家臣だった僕のご先祖にも、戸次川の戦いで亡くなった方がいます。第三軍の元親は出陣していないので、おそらく第二軍の嫡男、信親と共に寒い川の中で戦死したのでしょう。しかし、血を次ぐ者がいたからこうして僕は、この記事を書く事ができています。名は分かりますが、顔も知らないこのご先祖が戦乱の世、家を守られ戦死された事に400年の時を経て僕は感謝しています。その他すべてのご先祖の方々にも感謝してます。


容易に行ける場所にご先祖のお墓があるのに、お参りにほとんど行かない方々もけっこう居る様にお見受けすることがあります。どなたのご先祖様もそうですが、その先の子孫の事など無論、知る由もなかったでしょうが、今、こうして自分が生きている事を、ご先祖様に感謝した事がない方もいらっしゃるかもしれません。


ご先祖のお墓参りは、死者を供養に行く為だけではなく、色んな感謝の気持ちも伝えに行く行為です。ご先祖様だけに限らず、様々な要因により「私は、生かされています」。想像力を働かせ、いろんな事を繋ぎ合わせて考えてみれば、様々な感謝の気持ちが生まれてくるのではないでしょうか? そういった感謝に気づくと、なんの根拠も無い「私の傲慢さ」「私の怠慢」も失せて謙虚さが生まれてくるのではないかと思います。

土佐の上士と下士との確執



土佐の戦国大名だった元親。その嫡男である信親の死によって、元親の様子もおかしくなって行き、元親自身も亡くなった後、四男の盛親が当主となりますが、長宗我部氏は段々と衰退して行きます。そして、関が原の戦い後、負けた西軍に長曽我部氏は属していたため、結果、土佐の領土は家康に没収され、長宗我部家は改易となり、それに代わって、静岡の山内一豊が土佐一国を与えられました。


高知城 山内一豊像
高知城 山内一豊像


関ヶ原の敗戦後、盛親は京都で浪人として暮らしましたが、その頃、山内一豊が土佐へ入国する際、一領具足と呼ばれる長宗我部家の家臣が、高知の桂浜の浦戸城に篭城し「盛親に土佐の半国でも返して欲しい」と訴えました。浦戸一揆と言われていますが、内部の重臣の裏切りなどにより城が明け渡されたとも聞きます。うちの家系図で、僕の直系のご先祖から分かれた所に、浦戸一揆に関わった方と同じ名の人がいますが、本人かどうかはまだ調べきれてません。


その後、一豊は、桂浜の向かいの種崎の浜で、嘘の相撲大会を開催し、各地の力自慢を集め、その中から浦戸一揆に加担した者たちを一斉にひっ捕らえ、桂浜の近くにて長宗我部家臣の一領具足273名の首を刎ね事態の収拾を計りました。徳川家康に対する顔向けなどもあるでしょうが、その時、内助の功で有名な一豊の妻の千代は「なんと酷い事を・・・」と言いい、一時、家を出たとも言われています。その後も土佐の各地で小規模な一揆が勃発していたようです。どちら方の事情も分かりますが、この頃から、土佐の武士と山内家やその家臣との確執が生まれた様に感じます。


そして、浦戸一揆から時は過ぎ、長宗我部や真田などの豊臣方が大阪の陣にて最後の決戦に挑みます。しかし勝利する事はできずに、徳川の天下統一が果たされ、長宗我部盛親も処刑されて長宗我部氏は滅亡しました。今現在は、ご子孫と名乗られる方がいる様です。そして僕の直系のご先祖も大阪の陣で戦っていますが、その後、ご先祖は一豊公の土佐入国後も続けて苗字帯刀を許され、庄屋役(村役人)を賜りました。土佐の下士です。


高知城
高知城


江戸時代、同じ武士の中でも、山内一豊に同行した家臣は上士、土佐土着の武士や長宗我部家旧家臣団は下士とされ、下士は特別な場合を除いて高知城に仕える事はなかったようです。下士は、「下駄を履いてはならぬ、日傘をさしてはならぬ」等といった上士との差別化も計られていたようです。新しい殿様を向かえても、直属の家臣にはなれない事に対する不満と、一豊入国の際の浦戸一揆での一領具足兵に対する処罰への憤りは300年間、土佐の人々の心の奥に眠っていてもおかしくはないかもしれません・・・

長年、志しが定まらなかった龍馬



幕末、ペリー来航により日本全土が揺れる中、土佐でも下士らで結成された土佐勤王党による山内家の重臣暗殺事件などが勃発したり、日本の未来の為といった大義名分に乗じて、300年に渡る不満が爆発した下士達もいたのではないかと感じます。日本各地でも、佐幕、倒幕、攘夷、開国などの思想に別れた血で血を洗う戦いが起こり、龍馬も土佐の地で友人の死など、様々な事に翻弄されていた事でしょう。


高知市 桂浜 坂本龍馬像
高知市 桂浜 坂本龍馬像


龍馬は幼い頃は、鼻タレで泣き虫でアホの龍馬といった具合に周りから馬鹿にされていたみたいです。学問の方もパッとしない落第生だった様ですが、剣術の方はメキメキと上達して行った様です。そんな中、有名ですが、16歳の時に、姉の乙女ねーやんに宛てて詠んだ句があります。

世の人は我を何とも言わば言え

我なす事は我のみぞ知る

「他人は自分を見て、勝手に言いたい事を言ってればいい。具体的手段はまだ分からないが、自分には理想とする世界観がちゃんとある。それでいいのだ。」

こういった感じの心境だったのではないかと思います。

当時、この様な事を言ったという事は、自分自身に対する何らかの苛立ちもあったり、他人の評価を気にはしていたんでしょう。周りの人々が、これから自分の志しを持って何かを目指して行こうとする中、当時では、他人に中々切り出せない夢物語と言われる様な理想を龍馬はひっそりと抱いていたのかもしれませんね。


そして、武士と言っても、土佐藩の下級武士である龍馬たちの身分では、思うように事を進める事も出来なかったでしょう。付け加えれば、龍馬の実家は豪商で、お金で郷士株(下級武士の身分)を買いました。なので、武士の間では何かと低く見られていた可能性は否定できません。


他人の評価をすごく気にする方もいます。気にするとは、それに囚われると言う事ですね。それは、弱さとも言えます。特に悪い事を行っていないのなら、いちいち他人の評価なんて気にする必要はないと思います。アドバイスには感謝して耳を傾けてみればいいですが、自分の志しを阻む様なものは気にせず無視すればいいと思います。


他人の事は何も分かっていないのに、他人をあーだこーだと言いたくなるのが人間です。自分と違ったり、少し普通と違ったり、集団や組織の中でやや浮いていたりすると、人はいちいち何か思いたくなるのではないでしょうか。この日本だけでも人はどれだけ居ると思いますか?


「え?35億?」そんなには居ませんが、いちいち気にしてたらきりがない。自分の全てを他人が分かっているという事など、まず無いでしょ? 他人の評価を気にした生き方は、不自由極まりないです。自分の人生を生きているとは言えませんよね。この人生で自分がやるべき事をやるだけです。


龍馬は、31歳で亡くなる数年前まで、全国各地の有識者や思想家などの所を訪れて学んだり、様々な志士達と交流を深めて、長い間自分の目指すべき道を模索し続けました。


世の中、今の生活のままでも良いよって人もいれば、今とは違う何かを求めて行きたいと思う人もいます。「毎日つまんないし、こんなの嫌だな」ってこぼし、ため息をつく人がけっこういますけど、だからって何もしようとしない人が多いとも思います。諦め、または「今はまだいいや、そのうちに・・・」的なオーラしか感じられないです。


人それぞれのタイミングや人生の流れってものがあるので何が正しいとは言えませんけど、誰しもが錯覚しがちな事。若い頃は特にそうだと思いますけど、人生は永遠ではありません。当たり前の事を言ってますが、自分がこの世にいつまでも在るかのような錯覚が少なからず誰にでもあるのではないでしょうか?


時間は限られています。何かをしたいけど進みたい道や方法が分からなくても、運任せや神様頼みだけではなく、常に自分で積極的に、悩み、考えて、動き、模索し続けていたら閃きとか何かピンとくるものに偶然出会ったりするものです。(まあ、これは偶然より必然と言った方が正しいかな)目先のものだけを見て、ただただ、漠然と何にでも手を出してても、時間の無駄に終わってしまう事もあります。


様々な経験は必要ですが、人の一生だけで地球上の全ての人を知り、全ての事を知るのは人間にはどっちみち不可能な事で、限られた事しか経験できないです。そこまでの時間がありません。真剣に考えながら、自分のフィーリングに合ったものの中でしっかりと的を絞って行くべきじゃないでしょうか。少しでも早く、自分の芯を安定させ、ブレない動じない自分と信念といったものを確立していった方が、目的地が定まりやすいはずです。何度も言ってますが、ちゃんと行っていれば、何かしらの形で呼吸法や瞑想の効果が現れる時がきます。忘れないでください。

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土佐人の「気高さと反骨精神!?」



現在の高知ですが、都会の様な暮らしを好む人にとっては、見向きもされないような田舎です。一年を通して比較的温暖な気候と、太平洋や自然によって育まれた土佐人気質。高知に行った人には分かると思いますが、自由でのんびりとした感じがあると思います。みなさん比較的に陽気な気質で、怒ったり喧嘩したりしても、いつまでも引きずらない人が多いと思います。


高知を気に入って東京から高知へと移住し、法律事務所を開業した弁護士さんの話を聞いたことがあります。離婚問題で来た夫婦が大喧嘩をしてたのに、次の日に来た時は、二人とも何も無かったかのように、ケロっとしていた事に弁護士さんは大変驚かれていました。そうです、土佐人は熱しやすく冷めやすい人が多いです。あと、よそから高知大学にこられた教授が驚かれたのが、学生が教授に敬語ではなくタメ口で話しかけてくるという事。いや~高知では、よほど、かしこまった組織や商売ではない限り、目上の人や、はたまた自分の会社の上司、社長にでもけっこう敬語を使いませんよ(笑)「だからいつも、年収や学力で全国ワースト1位を争ってんじゃねーか?」って思われても仕方ありませんね(笑)


言葉の使い方も独特のニュアンスがあったりしますし、他県の方に誤解されやすいのが、普通に喋ってても、土佐弁は乱暴に聞こえるみたいですね。僕の友人が小学生の頃、神奈川から母親の故里の高知へ転校してきて、教室に初めて入った時、「なんでみんな口喧嘩してるんだ?」って驚いたそうです(笑)


男は、いごっそう(頑固)で、女は、はちきん(気が強い)な龍馬の乙女ねーやんのイメージの人が多いですね。日本の中でもけっこう異質な感じのある文化圏ではないかと思います。あと、人口の割には、美男美女が多いみたいですよ♪


権力といったものに対して抵抗する事を反骨精神といいますが、古代より土佐へは、中央政権での権力争いに敗れた有名豪族や高貴な方々が、沢山流されてきています。陸の孤島に封じ込める為です。平家をはじめ、戦に敗れ土佐に逃げ落ちて来た武士も多いです。だから土佐人は、どことなく気高さを持ち合わせた反骨精神の強い遺伝子が現代にまで伝わってきているのではないかと僕は思います。もちろん、江戸時代の上士に対する下士の反感も含めてです。「負け犬の田舎者じゃん」って言わないでくださいね(笑)


テレビで色んな方が演じる龍馬役のイメージとしては、自分の主観というか好みかな?で、言わせてもらうなら、「龍馬伝」の福山雅治さんはカッコ良かったですが少し違うかな・・・ ドラマ「仁」での内野聖陽さん演じる龍馬がとても良かった様に思います。時代と共に変わりつつはありますが、内野聖陽さんの龍馬の様な感じの人が土佐人のイメージに近いと思います。


海の幸、山の幸が豊かな高知。今は、土佐の鰹のタタキや よさこい祭り などは県外でも体験できますが、本場の雰囲気と魅力は、高知の夏や空気に触れてみないと味わえませんよ! 僕がよさこい祭りで踊ったのは、ずいぶん昔、18歳の時が最初で最後!?かな。高知城近くの追手筋本部演技場でしか貰えない花の付いたメダルを頂けたのが思い出です♪ 以前、三代目 J Soul Brothers R・Y・U・S・E・Iで、また有名になったヒップホップのステップのランニングマンを取り入れた踊りだったのを良く覚えています。


他には・・・ まあここには書いていない高知なりのものが沢山あります(笑)調べてみてください!そんなこんなで、高知の中途半端なPRも終わりにしたいと思います。行った事がない人も是非、高知に行ってみてくださいね♪「自由は土佐の山間より出づ」


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